所詮は無理なこと
これをひたすら頑張り続けている人がよくいます。
それは、
「全ての人に愛され、全ての人に認められるように」
・・・と、ひたすら、ただ、ひたすら。
神経を遣い努力していると思い続けることです。
これをひたすら頑張り続けている人がよくいます。
それは、
「全ての人に愛され、全ての人に認められるように」
・・・と、ひたすら、ただ、ひたすら。
神経を遣い努力していると思い続けることです。
では一体、自分自身はどうでしょう?
誰のことでも、好きになれて、
誰のことでも認めることができて、
賞賛することができるでしょうか?
そんなことは、
自分の素直な感情に耳を傾ければわかりますが、
人には好き嫌いがあって当然だと思います。
したがって誰のことでも
素晴らしいと思うことなど、土台無理。
(決めつけはよくないですけどね・・・)
しかし、、、
「こうあるべき」
・・・という自分に執着している人は、
実際の自分自身を受け容れていません。
ゆえに、
「こうあるべき」
・・・という自分を頑張ることで、相手にも
「こうあるべきである」
・・・ということを期待しています。
でも、ここで大事なことがあります。
人間てなんてものは、所詮勝手な生き物です。
それは、
この社会の在り方を見ても
あるいは、
人間が地球に暮らすうえで
どのように自然と関わってきたかを眺めれば
よくわかるのではないでしょうか?
ゆえに、、、
他者にどう思われるかなんてことに
いくら神経を遣ったとしても
それが自分の幸せに繋がるなんてことは
とうてい、ありえないわけなのです。
むしろ
実際の自分が感じられにくくなって
こころは、弱っていくだけでしょう。
僕が思うには、まず自分自身も身勝手で
好き嫌いのある矛盾した人間の一人である
ということを自分自身で、認めた方が
「相手のことも
自分のことも
現実的に見ることができる」
・・・・のではないかと思います。
つまり
「こうあるべき自分」の要求を
聞くのではなくて・・・
実際の自分の要求を知って
他者と関わることが大切なのです。
そうすれば必然的に
自分自身にも相手にも
「まあまあ」というところで
折り合いをつけられるものだと思います。
またそう思わなければ
どんな人間関係も成り立ちません。
いずれにしても
こころのエネルギーは
他者にどう思われるかに費やすより
自分自身の最高な生き方を見つけて
その自分を大切にすることに費やされるほうが
健康的な生き方になると思います。
もし仮に・・・
その自分を批判する人がいるのであれば
その人から十分なこころの距離をとって
よりいっそう自分らしく生きることです。
そのような人には
自分の目や耳に入らないところで
勝手に批判しててもらえばいいではありませんか。
だってその不快な感情は
その人が抱く感情なのですから。
そう思えば
ずいぶん、こころも楽になるというものです。
しかし、その場合、、、
決して、その人を恨んだり
あるいは、
逆に利用しようとしたり、
またそうではなくても
自分が必要としているのであれば
その人の言っていることを
批判的に受け止めているのは
自分自身であるということに
気がつく必要もあると思うんです。
自分の生き方をもつということは
素晴らしいことです。
が、、、、、
それと同時に、それはあくまで
甘えからの離脱でもあるということを
どうぞ心の片隅にとめてなくてはいけないかと。
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